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私とアレルギー

[2019.05.22]

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私は自分がアレルギーを専門にするなんて、まったく考えていませんでした。

当時の小児科の教授が飯倉洋治というアレルギーの大家だったのです。ぼくはこの人物に惹かれて、小児科の医局に入局しました。

小児科に入ってはじめて、子どもたちが喘息で苦しんでいる姿を目にしました。
教授のべシュライバー(教授が口述する症状や薬などをカルテや処方箋に書く仕事)に就いて、まっさらな状態の頭に、喘息の知識を一生懸命詰め込みました。

 

自分ではこれが普通と思っていた教授の喘息治療が、普通ではないと知ったのはしばらくしてからでした。

石垣島に勤務したときも、医長先生は飯倉先生はどんな処方をだすの?と興味をもってたずねてきました。まだインターネットによる医療情報共有が目新しい時代だったという背景もあります。

相模原病院に勤務して海老澤先生の下ではたらかせていただいたのも、飯倉教授のおかげでした。

 

時代は代わり、喘息の薬も吸入ステロイドが中心となって入院する子どもはがくんと減りました。
テオフォリンというおくすりを点滴でおとすこともなくなりました。
テオドールも痙攣をとまりにくくする、ということがわかり、子どもには使いづらくなりました。

医学は進化します。
重症喘息がへりましたが、食物アレルギーや小児のアレルギー性鼻炎は増加しています。

でも、人間と人間との関わりの本質はかわりません。

変わるものと変わらないもの。
どちらもバランスよく大切にしながら医療を届けていきたいと思っています。

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